スピリチュアリズムを唱える人たちの中にはともすると現実逃避の方便として「そういう運命だった」、とか「これは導きだ」「そのままの自分でいい」など、すべてのことに意味があるということを逆手にとって、出来事の意味を分析せずに自分を正当化するための一時しのぎの逃げ場として利用してしまうケースが少なくありません。
その結果、世間知らずだとか、現実と向かい合えず逃げの人生を送っていると思われたり、守護霊がこうしろと言っている、などと周囲を「また始まったよ〜」とあきれさせてしまうようなことになりかねません。
本来自分がスピリチュアリストとして言葉と行動が伴い、常に物事に対して理性的な判断をして明るく朗らかに、愚痴を言わず、人に優しく思いやりのある言動ができていたら、周りから「あなたはなぜそんなにぶれない軸を持ち、周りの人がをも幸せになるような生き方ができるのか」と自然にその秘訣を知りたいと興味をもたれるものです。
私自身もカウンセリングの際に必ず皆さんにお話するのですが、
人は良きにつけ悪しきにつけ、理にかなっていないことが起きた時に、その原因をつい何かや誰かのせいにしたがる傾向があります。
それは運命だったり、神様やご先祖様の影響だったり、バチがあたったと思ったり、前世の行いだったり、占い、方位や字画、風水等々・・・きりがないですね。
このような時、人は感情に流され判断を誤り易くなります。
皆さんもよく、耳にされたことがあるかと思いますが
別れた彼(彼女)と○年ぶりにばったり会ったのは、本当は彼(彼女)と結ばれる運命だったからでしょうか、とか、
この仕事がうまく運ばなかったのは、するなということだったのでしょうか、などと
自分の何を試されているのかということを分析しないまま自分に都合のいい理屈や一般論で判断してしまう危うさがあります。
それでは正しい判断はというと、何か起きた時にいつもの原点に戻って「波長でおきたのか、カルマでおきたのか、おしるしでおきたのか」これを自分に当てはめて理性で分析することです。
たとえば何かの試験に落ちたのなら
・単純に自分の努力不足なのか
・好きか、やってみたいかの前に憧れだけでこの方がかっこいいからなどと人からどう見られるかを気にしていたからか
・この資格があれば後々仕事に困らないだろうなどと保身前提の小我な動機で受けていたからか
・今はまだその時ではない、というメッセージなのか
等々、各々の生まれた意味と行動、そして今生の学びに対して全くその意味は違ってきます。
ですので、常に自分にとってどんな意味があり、何を学ぶためで、どんな自分の未熟な部分があぶりだされているのか、
そこを重点に判断していかなくては何度も同じ目にあったり、いつまでも懲りない成長のない人になってしまいます。
一度だけの今生ですから、教典主義や運命論者にならない様、悔いのないよう自律して常に冷静な内観、分析のもとに自分の人生を生ききりたいですね。