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  • 2021.08.18 Wednesday
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誰もができることを誰にもできないくらい繰り返すこと

金曜日に毎年秋恒例、美輪様の「ロマンティック音楽会」に行ってまいりました。

春は舞台、秋は音楽会、思い起こせばもうかれこれ20年以上私の生活の一部になっている大切な心の栄養源です。

丁度先日心理カウンセラーの先生から、
「新しい能力を身に着けるには、誰もができることを誰にもできないくらい繰り返すこと」
というピーター・F・ドラッカーの言葉をご紹介いただいたのですが、まさにこの時私は美輪様のことが真っ先に思い浮かびました。

この誰もできないくらい繰り返している実践があるからこそ、美輪様の歌、言葉には重みと真実味があり、そして多くの人の心に届くのだ、と。

その時人を感心させるような口当たりのいい言葉を言うことはテクニックでいくらでもできるようになりますが、自分の経験値が上がったり、俯瞰でものが見れるようになると、何とも陳腐なものに感じられたり、まるでメッキがはがれるように、輝きを失っていきます。

けれども経験と感動と、実践に裏打ちされた言葉は、重みがあり、オリジナルであり、何十年経っても輝きを失わず、自分の成長に合わせるかのように毎回違った感動と学びをもたらしてくれます。

私は10代で美輪様を知り、物事の真実を見抜く目を養わせてていただき、感謝ばかりなのですが、そこで終わらず、この軸を太くより強いものにしていきたいと思いました。

美輪様の舞台や音楽会同様、それが本物であれば何度も繰り返すことで更に新たな何かが見えてきます。
皆さんも馬鹿らしい、意味がないなどと思わずに繰り返しの先に見えるものを信じて歩き続けてみませんか。
ここに偉大な生き証人がいますので(笑)

良いニュースは小さな声で語られる

昨日今日と冷たい雨と共に急に冷え込みましたが、明日からはまた暑くなるようですね。

さて、恒例になりました「スピリチュアリズム勉強会」ですが、昨日も波長で集まった皆様と有意義な学びの時間をご一緒させていただきました。

今回ご参加の皆様は今までスキルも経験も積み上げてきたものの、どこか義務感で走り続けてきただけで、「そこに自分がなかったのでは・・・本当に自分のしたいことをしてきていなかったのでは・・・」というもやもやを乗り越え、自分のなりたい自分になるための一歩を正に踏み出さんという状態の方ばかり。
だからこそ頭では分かっているものの、実際には自分に自信が持ちきれなかったり、無難におさめようとしてしまったり、どうしても自身の思い癖からなかなか脱しきれない状態でしたが、奇しくもこの日のスピリチュアルメッセージは本当に覚悟して努力することで必ず道が開けていくという内容のもので、私自身を含め、改めて今生のテーマを実感させられました。

人は過去世で経験してこなかったことや克服できなかったことを現世で実践しようとするとき、必ず不安という気持ちが起き、失敗したくないがために一般論や、多勢の意見に流されがちなものです。
けれども実は自分の心の声に耳を傾けることが一番大事なのです。
そしてそうすることでしか、なりたい自分になることができません。
ありのままの自分であるということはそのままの自分でいればいい、努力しないということではなく、人と比べたりせず、自分の生まれた意味に対して真摯に取り組んで内観し、自律していくということなのです。

さて、題名の「良いニュースは小さな声で語られる」は村上春樹著「ねじまき鳥クロニクル」の一節なのですが、
現世においてはとかく悲惨な事件であったり、人の陰口であったり、根拠の無いゴシップがさも事実の様に語られ、人が群がります。
それだけ、多くの人が情報に流され自律心を失い、不安を抱えて生きているからでしょう。
そしてそこに、自分で判断せずとも「これこれこうなんですよ」と誰かが断言してくれることで安心したいという心が現れているのかもしれません。

ですから、自分の軸をしっかり持って耳を澄まして心を穏やかにしていないと、いつまでたっても自分に向かって良いニュースは語られません。
良いニュースは小さな声で、こっそり語られるのです。
自律無くしては決して聞こえてこないのです。

良いニュースをしっかりと聞きとる耳を持ってより自分の心とたましいをを磨きたいものです。

感情ではなく理性で

毎日の様に尖閣諸島に関する中国の暴動に関する報道されていますが、こんな時こそ一部の情報に惑わされることなく「感情でなく理性で」物事を捉えていくことが大事です。

感情的になっている相手に感情で応戦しては最悪の事態を招きかねません。

これもいつもお話ししていることですが、相手に変わってほしいと思う前に自分が変わること。理解されるよりも理解しようとする一人一人の人間力が試されます。

急な経済成長、物があれば幸せ、自分さえよければ人はどうでもいいを追及した結果大きな格差が生まれ、積もり積もった不満のはけ口として領土問題をきっかけに暴動につながったわけです。

小さな子供が車に轢かれ瀕死状態であっても躊躇することなく見て見ぬふりをして通り過ぎてしまうまで心が麻痺し、子供を持つ母親でさえも、自分の子さえよければ人のことはどうでもいい、と思うことが当たりまえの状況、もうそこまで行ってしまった国なのです。
どんなに高い志を持とうとしても、ここまで追い詰められてしまっていては心の平安はありません。

全てのことはカルマとなってかえってきます。
幸せな人は人に不快な思いをさせるようなことはしません。

ですから何が正しい、間違っているという判断で相手を裁くのではなく、
理解することから、理性を持って対応していける自分たちであることが試されます。
また、情報に対しても「本当にそうかな」と一方向的に判断せず、俯瞰で見ることが大事です。(マスメディアの情報操作やご都合主義は福島の原発事故のことでも分かりますよね。)

そしてこれは今回の問題に限らず、全てのことにおいて感情でなく、理性で対応していくことのできる自分になるためにも他人事と思わず自分のこととして考えていくことが大事です。

言葉選び

私が太宰治を初めて読んだのは小学校6年生のとき、「人間失格」でした。
それ以来太宰の作品を読み漁ったわけですが、未だに15歳のときに読んだ小説から受けた衝撃は忘れられません。
それが、この箇所です。


『人間は、みな、同じものだ。
なんという卑屈な言葉であろう。人をいやしめると同時に、みずからをもいやしめ、何のプライドも無く、あらゆる努力を放棄せしめるような言葉。
・・・中略・・・
この言葉は、実に猥せつで、不気味で、
人は互いにおびえ、
あらゆる思想が姦せられ、
努力は嘲笑せられ、
幸福は否定せられ、
美貌はけがされ、
栄光は引きずりおろされ、
所謂「世紀の不安」は、この不思議な一語からはっしていると僕は思っているんです。』

これは太宰治の「斜陽」の一文ですが、それまで 人はみな同じ=平等
と思っていた私はこの言葉のマジックに愕然としました。

15歳の私は
同じ=差別、区別が無い
というプラスイメージばかり思い浮かべていました。
ところがこの作品を熟読してその言葉の裏にあるものがはっきりと見えました。
このとき言葉は人を攻撃する武器になるということを初めて知り、
それ以来私は
「人間はひとりひとり違うものだ」
という言葉を選んで使うようになりました。

自分の持つものごとや言葉のイメージに溺れない、一方向的なものの見方をしない。
ものごとには必ず表と裏、光は影とともにあり、どちらが欠けても存在し得ないのです。
この衝撃は私のそれからのものの考え方に大きく影響しました。

光だけ見ていても(反対に影だけ見ていても)それは「知る」ことにはならないということです。
綺麗事だけでなく現実から目をそらさずに、それらを踏まえた上で、常にたましいを磨きつづけることができれば決して間違った方向にはいかないのでは、と思ったきっかけがここにあったような気がします。 

太宰の作品は今でもなお、読むたびに学びがあります。

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