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  • 2021.08.18 Wednesday
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躓くことから学ぶ

いつかご縁があれば・・・とぼんやり思っていた富士山登山ですが、何故かとんとん拍子に決まってしまい、このところの日本の荒れた波長のことや今後の日本の在り方、こんな状況になってしまったことの反省の意を込めて体力なしの私が意を決して登ることになりました。

五合目から出発し、一日目は七合目トモエ館さんで一泊。
富士山の山小屋定番のお夕食と言えばカレー!
トモエ館さんの夕食にはハンバーグがドンと乗っています。(女子には結構量が多いです。胸焼け注意(爆))

深夜12時前に山頂目指して出発です。
空には星がたくさんで流れ星も見え、ワクワクしつつも
現実はかなりの急斜面に加え溶岩ゴロゴロの真っ暗な中ヘッドランプで足場を照らしつつ、
のそのそよじ登ること小一時間。
八合目手前から息切れが激しく、吐き気をもようしてきました。
とはいえ、ここであきらめては〜と自分に言い聞かせ急な溶岩登りが終り、
九十九折れの登り道になったあたりから、格段に登りやすい道になったにもかかわらず、
数メートル進むとひどい息切れと吐き気、めまいに襲われ全く足が進まなくなってしまいました。

とはいえ登山は自己責任。
自分の脚で歩くしかない、と休み休み何とか八合目白雲荘さんまでたどり着いたものの、
寒さとあまりの調子の悪さに動けなくなってしまいました。
かなりヨレヨレ状態です↓
ひとまず白雲荘さんで休むことにしましたが、冷や汗と吐き気は止まらず、
2時間ほど休んでも一向に改善なし。
終いには体が震えだし、嘔吐も始まりどんどん症状が悪化してしまったので、今回は泣く泣く高山病発症にて3200mで下山を決意しました。





まるで火星。
結構な斜面ですよね〜。
普通に登ってもきつそうですが、高山病がプラスされるとそれはそれは・・・。

下山を決めてからも呼吸困難と吐き気で意識朦朧としつつ3歩進んで3分休んで状態でした(汗)

五合目に到着してからももう立っていることもできず、ここまで下りてくると救護室もないので管理センターの方のご厚意でお部屋を貸していただき横にならせていただきました。
スタッフの方々にも本当によくしていただき(涙)登頂は叶いませんでしたが、皆さんへの感謝の気持ちでいっぱいで、私的には本当に良い経験になりました。

ともあれ、しっかり日本の今後のことは祈願してきましたし、
私自身も今後の自分の在り方を見直し、誓いを立ててきました。
また、登山も今回思うような結果が出なかったからこそ、自分の足りない部分がそれはそれははっきりとあぶりだされ、今後何についてもっと力をつけるべきかがよく見えてきました。

これからもっと体力をつけて(高山病予防は呼吸法しかないのかしら?!)
「転んでもまんじゅうつかんで起き上がる」の精神で”体力無し子”ですが頑張ります。
秋までにもう少し2000m級のお山に登って来年リベンジできたらいいのですが。。。

後日パートナーがトレイルランニングの仲間とこの夏参加するUTMBに向けての試走+高地トレーニングをかねて0合目から数時間で登頂しさくっと日帰りで帰ってきました。
こればかりは生まれる際に自分が選んだ車種(肉体)の違いを実感させられましたね〜(苦笑)恐るべしです。
身の程知って出直してきます(汗)



この日の富士山はこんな素晴らしい龍神様がいらっしゃいました。
神々しい・・・・。
(画像は三好礼子さんのfacebookから拝借しました)

執着からの解放


映画大好きの私なのでいろいろ作品を見てはいたのですが、今一つピンとくるものがなく、久々のレビューです。

それは、待ちに待ったクリストファー・ノーラン監督の「バットマン」シリーズ3部作、完結篇の「The Dark Knight Rises」です。

2005年、1作目の「Batman Begins」2008年、2作目「The Dark Knight」、そして今夏、3作目でついに完結しました。
もちろん先行で観に行ってきました(笑)

以前2作目の「The Dark Knight」のレビューでも書きましたが、アメコミやヒーローものも特に思い入れのない私でも、この作品のテーマとしてある、憎しみや怒り、哀しみという人の心の闇やトラウマが何故できたかということも実は愛を求めるがゆえの寂しさであったり、人としての弱さであったり、大我と小我が入り混じりつつも、結局はどんな行為も人に愛されたい、理解されたいという気持ちが根本にあり、そこが満たされることで癒されていくというような、深〜いテーマがあるので見逃せないのです。

人は愛されたい、愛したいゆえに間違った行動も取ってしまうし、意地になって後戻りできなくなってしまい、苦しんだり(自分自身から解放されない執着するがために自らが起こしてしまう不幸ですね)
けれども全ての人に神我があるからこそ、そこに従って生きることで成長していきたいという気持ちも見え隠れする複雑な葛藤が3作通して伝わってきました。

そしてお決まりのように自らが蒔いた種は自らが刈り取らなければならないというカルマの法則でしっかり締めくくられます!
(本日(28日)公開なのでネタバレしないようにしてます!)

本当によくできた3部作で、特に最終作は私の大好きな役者さんばかり出演されていて、
3時間という長編でしたがぐいぐい引き込まれて観てしまいました。
ご興味のある方は作品を通じてその奥に隠れているテーマを感じてみてくださいね!

観に行かれる方は1作目、2作目を見てから行きましょう(でないと話が全くつながりませんのでご注意を!)
あと、銃撃戦などのシーンもあるのでアメコミ原作とはいえ大人向け作品です。


◇余談◇
ジョセフ・ゴードン・レヴィット、今回もかっこよかったです。
マリオン・コティヤールにアン・ハサウェイは文句なしにはまり役でした。
ちょこっとキリアン・マーフィも出ていて感動!!←何気に3作全部に出てます♪
けれどもびっくりは「インセプション」のイームスこと、トム・ハーディが肉体改造?!して激変してます!
これは見ごたえアリ。

マニアネタだと「クリミナルマインド」のJJの旦那さん役のジョシュ・スチュワートも頑張ってましたよ〜!
相変わらずNice looking guy!


霊的真理を理解する一歩。


また今日から猛暑の夏が戻ってきましたね。
熱中症対策など、体調管理に気を付けましょう。

さて、今月も21、22と2日間、スピリチュアリズム勉強会が盛況のうちに終了しました。
これもご参加いただいた皆様が真摯に会に取り組んでくださったからこそ。
心より御礼申し上げます。

今回は職場や日常の人間関係の中で、自分とは価値観もペースも全く合わない人と何故出会い、どのように対応し、自分がそこから何を学んでいけばいいかというようなことや、家族の在り方などを自分の生まれた意味から分析して、受け入れ、どう乗り越えていくか、という一番身近かなことがテーマになりました。

そして、そういった場面で自分の気持ちをどう相手に伝えていくことが、自分の学びになり、自分の経験値を高めて行けるかというようなところにまで話を深めていくことができました。

また、供養や占いとの付き合い方なども実例に即して話が進み、個人カウンセリングとはまた違った視点で皆さんご自身の今生を見つめ、どのように他者と関わっていくことが大我であり、小我であるのか、その結果どんな未来が待っているのかを、波長・カルマに即して学びより理解が深まりました。

そしていつものお決まり(笑)の会の終わりにはみなさん素敵な笑顔になってお帰りになる姿に、私も感謝でいっぱいの気持ちになりました。

会は4時間という長時間を設けているのですが、話は尽きません。今後はテーマ別に絞っての開催もいいかな、などと思いました。

8月も開催予定です。
事前のお問い合わせもお受けしておりますので、ご参加を是非ご検討くださいませ。
次回も今から楽しみです。


※画像のお花をNちゃんよりいただきました。
相手の負担にならないちょっとした心遣いが当たり前にできる女性は素敵ですね。

生まれ来る子供たちのために

このタイトルでピンと来た方、昭和生まれですね〜(笑)

このところ、あまりにも物質的な幸せばかり追及したり、自分さえよければいいという自己中心的な出来事ばかりが世間をにぎわしていますが、だからなのか、この歌を急に聴きたくなり「YouTube」で検索してみました。

私は中高生の頃、オフコース、佐野元春、などをよく聴いていたのですが、その大昔(爆)から大好きだった歌がこの「生まれ来る子供たちのために」です。
まるで今の日本のことをうたっているようですね。(30年も前に!!!)

まだ知らないという方は是非お聴きになってみてくださいね♪
http://www.youtube.com/watch?v=LW-EAXk5jFU

大切な人を、家族を、子供を、孫を、自分は守れるか。
そしてずっとその先の愛すべき人々に自分は何が残せるか、また何を残してはいけないのか。
私たちに委ねられているのです。


「生まれ来る子供たちのために 」
作詞、作曲:小田和正

多くの過ちを 僕もしたように
愛するこの国も 戻れない もう戻れない

あのひとがそのたび 許してきたように
僕はこの国の 明日をまた想う

広い空よ 僕らは 今どこにいる
頼るもの 何もない
あの頃へ帰りたい

広い空よ 僕らは 今どこにいる

何を語ろう

君よ 愛するひとを 守り給え
大きく手を拡げて
子供たちを抱き給え
ひとり またひとり 友は集まるだろう
ひとり またひとり ひとり またひとり

真白な帆を上げて
旅立つ船に乗り
力の続く限り
ふたりでも漕いでゆく
その力を与え給え
勇気を 与え給え

NO NUKES

 
私のfacebookのウォールの方ではすでに触れた内容なので、ご存知の方も多いかと思いますが、再度お知らせさせていただきます。
今日の仙台で行われた「エネルギー・環境会議」が正にこの決断をどうするかの意見聴取会になるのですが、この会の様子をニュースでご覧になった方も多いと思います。
抽選で選ばれたという意見者の意見が個人としてではなく、電力会社のいい訳のような感じで人選自体がやらせではないかという疑いの声が飛び交うような何ともお粗末なものに終わりました。
こんなことでは先が思いやられますが、そんな今日、「さよなら原発10万人集会」の話題も盛り上がりました。
作家の大江健三郎さん、瀬戸内寂聴さん、アーティストの坂本龍一さん等々、影響力のある方々が参加したこともあり、デモといっても暴力的で過激なものではなく、あくまでもこの先の未来のことを考えたとき、再稼働という選択は間違いなのではないか、という事実を伝える手段としてどんどん輪が広がってきました。

もちろんデモを推奨しているなどという単純なことではなく、他人事ではなく無関心ではいられない、ということをお伝えしたいのです。
この先の日本、世界、地球規模で考えたときに原発は最適であるかと考えると答えは簡単、既に出ています。
自分はどう考えるか、そのためにはどう行動するのか、今真剣に向かい合わなくてはならない大事なことだということなのです。

思いを行動に移す

先日、以前からご縁をいただいていた方に初めてカウンセリングにお越しいただいたのですが、その日が丁度去年亡くなった長男猫「ミュウ」の月命日に当たり、画像のお花をいただきました。

その方とはカウンセリングよりも前にお会いした際にも特にそういった猫の話をしたわけではなかったのですが、私の以前のブログを読んでくださって知ったということでした。

全く想像していなかったことでしたのでとてもうれしく、感謝しつつ早速ミュウの遺影の前に飾らせていただきました。

「こうしたいな」「ああしたいな」と思うことはできてもそれをいざ行動に移すとなると恥ずかしくなってしまったり、どう思われるかと思ってしまうことがありますが、
そんな時自分の動機が本当に相手のことを思う大我ならば必ずその気持ちが伝わり、相手が幸せに満たされます。
こうしたら感謝されるだろう、こう思ってもらえるだろう、というような相手のことを思うようでいて、実は自分がどう思われたいかというような小我が動機の場合は、やはり相手にも押し付けがましく思われたり、余計なことや有難迷惑に思われることになります。

自分がどんな思いであるか、それが大我の動機であるならば、恐れずに行動に移しましょう。
たとえすぐに伝わらなかったとしても、自分が思う以上に相手には必ず大きな幸せや感動をもたらすことになるのです。


◇Cちゃん、素敵なお花ありがとうございました。
天国のミュウにもそのあたたかな気持ち、しっかり伝わっています。◇

自分を癒せてこそ


先日スピリチュアリズム講座にて「スピリチュアル・ヒーリング」の定義について学びました。

この講座を受けながら思ったのが、カウンセラーやセラピストやヒーラーという肩書に関係なく、全ての人間関係においても全く同じで、だれであっても人と接するにあたり自分から発するものが周りを変えていくことができるということです。
それはいいものであれば良い方向に、悪いものであれば悪い方向に進んでいきます。
波長の法則が働き、類は友を呼ぶからですね。

言葉を交わすだけで、また場合によっては一緒にいるだけで相手の人格にまでよい影響を及ぼすような人になるための努力を怠らないことができる自分になること。これは非常に難しいことです。
また、自分の軸がぶれていては「ルカの福音書」の中に

「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、
なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか

自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、
『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』
と、どうして言えるだろうか。

偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。
そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」

こうあるように、
「人を癒すことで実は自分が癒されたい」「癒すことで感謝されたい」という気持ちが根本にあると相手のためでなく、自分のための行動になってしまうわけです。
これは相手を通して自分が満たされたいという小我になってしまいます。
ですから、まずは自分が癒され、幸せな状態でないと人を癒し、幸せにはできないのです。

自分は常に癒され、幸せで、生かされていることに感謝して毎日を過ごせるよう、霊的真理と向かい合い自律を心がけていくこと、まずはここからです。
でもこれが言葉でいうほど簡単ではないからこそ学びになります。

七夕のおはなし

今日は七夕です。
あいにくの雨模様ですが、織姫と彦星の逢瀬を思い、みなさん何となくとロマンティックな気持ちになれた一日だったのではないでしょうか。

みなさんも空の色や風の香、音楽などに季節を感じることが多いかと思いますが、私はプラス小説があります。
それは太宰治の「作家の手帖」という作品です。
私がこの時期になると必ず思い出し、読むたびに改めて感動する素晴らしいもので、以前にもご紹介したことがあります。
この作品、正に今の日本に必要な心を表しているように思えます。
本来の良さを失わないよう、そのままご紹介いたします。
きっとあなたの「神我」に触れることでしょう。

ことしの七夕は、例年になく心にしみた。
七夕は女の子のお祭である。女の子が、織機のわざをはじめ、お針など、すべて手芸に巧みになるように織女星にお祈りをする宵である。
支那に於いては棹の端に五色の糸をかけてお祭りをするのだそうであるが、日本では、藪から切って来たばかりの青い葉のついた竹に五色の紙を吊り下げて、それを門口に立てるのである。竹の小枝に結びつけられてある色紙には、女の子の秘めたお祈りの言葉が、たどたどしい文字で書きしたためられていることもある。
七、八年も昔の事であるが、私は上州の谷川温泉へ行き、その頃いろいろ苦しい事があって、その山上の温泉にもいたたまらず、山の麓の水上町へぼんやり歩いて降りて来て、橋を渡って町へはいると、町は七夕、赤、黄、緑の色紙が、竹の葉蔭にそよいでいて、ああ、みんなつつましく生きていると、一瞬、私も、よみがえった思いをした。
あの七夕は、いまでも色濃く、あざやかに覚えているが、それから数年、私は七夕の、あの竹の飾りを見ない。いやいや、毎年、見ているのであろうが、私の心にしみた事は無かった。それが、どういうわけか、ことしは三鷹の町のところどころに立てられてある七夕の竹の飾りが、むしょうに眼にしみて仕方がなかった。それで、七夕とは一体、どういう意味のお祭りなのか更にくわしく知りたくさえなって来て、二つ三つの辞書をひいて調べてみた。けれども、どの辞書にも、「手工の巧みならん事を祈るお祭り」という事だけしか出ていなかった。これだけでは、私には不足なのだ。もう一つ、もっと大事な意味があったように、私は子供の頃から聞かされていた。この夜は、牽牛星と織女星が、一年にいちどの逢う瀬をたのしむ夜だった筈ではないか。私は、子供の頃には、あの竹に色紙をつるしたお飾りも、牽牛織女のお二人に対してその夜のおよろこびを申し上げるしるしではなかろうかとさえ思っていたものである。
牽牛織女のおめでたを、下界で慶祝するお祭りであろうと思っていたのだが、それが後になって、女の子が、お習字やお針が上手になるようにお祈りする夜なので、あの竹のお飾りも、そのお願いのためのお供えであるという事を聞かされて、変な気がした。
女の子って、実に抜け目が無く、自分の事ばかり考えて、ちゃっかりしているものだと思った。織女さまのおよろこびに附け込んで、自分たちの願いをきいてもらおうと計画するなど、まことに実利的で、ずるいと思った。だいいち、それでは織女星に気の毒である。一年にいちどの逢う瀬をたのしもうとしている夜に、下界からわいわい陳情が殺到しては、せっかくの一夜も、めちゃ苦茶になってしまうだろうに。けれども、織女星も、その夜はご自分にも、よい事のある一夜なのだから、仕方なく下界の女の子たちの願いを聞きいれてやらざるを得ないだろう。
女の子たちは、そんな織女星の弱味に附け込んで遠慮会釈もなく、どしどし願いを申し出るのだ。ああ、女は、幼少にして既にこのように厚かましい。けれども、男の子は、そんな事はしない。織女が、少からずはにかんでいる夜に、慾張った願いなどするものではないと、ちゃんと礼節を心得ている。現に私などは、幼少の頃から、七夕の夜には空を見上げる事をさえ遠慮していた。そうして、どうか風雨のさわりもなく、たのしく一夜をお過しなさるようにと、小さい胸の中で念じていたものだ。恋人同志が一年にいちど相逢う姿を、遠目鏡などで眺めるのは、実に失礼な、また露骨な下品な態度だと思っていた。とても恥ずかしくて、望見出来るものではない。
 そんな事を考えながら七夕の町を歩いていたら、ふいとこんな小説を書きたくなった。毎年いちど七夕の夜にだけ逢おうという約束をしている下界の恋人同志の事を書いてみたらどうだろう。或いは何かつらい事情があって、別居している夫婦でもよい。その夜は女の家の門口に、あの色紙の結びつけられた竹のお飾りが立てられている。
 いろいろ小説の構想をしているうちに、それも馬鹿らしくなって来て、そんな甘ったるい小説なんか書くよりは、いっそ自分でそれを実行したらどうだろうという怪しい空想が起って来た。今夜これから誰か女のひとのところへ遊びに行き、知らん振りして帰って来る。そうして、来年の七夕にまたふらりと遊びに行き、やっぱり知らん振りして帰って来る。そうして、五、六年もそれを続けて、それからはじめて女に打ち明ける。毎年、僕の来る夜は、どんな夜だか知っていますか、七夕です、と笑いながら教えてやると、私も案外いい男に見えるかも知れない。今夜これから、と眼つきを変えてうなずいてはみたが、さて、どこといって行くところは無いのである。私は女ぎらいだから、知っている女は一人も無い。いやこれは逆かも知れない。知っている女が一人も無いから、女ぎらいなのかも知れないが、とにかく、心あたりの女性が一人も無かったというのだけは事実であった。私は苦笑した。お蕎麦屋の門口にれいの竹のお飾りが立っている。色紙に何か文字が見えた。私は立ちどまって読んだ。たどたどしい幼女の筆蹟である。
 オ星サマ。日本ノ国ヲオ守リ下サイ。
 大君ニ、マコトササゲテ、ツカエマス。
 はっとした。いまの女の子たちは、この七夕祭に、決して自分勝手のわがままな祈願をしているのではない。清純な祈りであると思った。私は、なんどもなんども色紙の文字を読みかえした。すぐに立ち去る事は出来なかった。この祈願、かならず織女星にとどくと思った。祈りは、つつましいほどよい。


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