昨日は敬老の日でした。
敬老という言葉にあるように、敬われるに値する年配者になれるよう、知識と教養を身に着け、何事も失敗を恐れず経験し、幾つになっても自分磨きを怠らずに生きた行きたいものです。
というのも、人はどうしても無難を好み、順風満帆なことを良しとしがち。横着ものだからですね。
けれども人も樹木の年輪のようにいろいろな喜びや苦労等の経験が自分を強くします。
ですから、大事なことは多くの経験、楽しい、うれしい、悲しい、つらい、苦しい、悔しい、すべてををすること。
どんな樹であるかということには重要ではありません。
どうしても年輪という中身を充実させる経験の重要さよりも、何の樹であるかにこだわってしまうのも、人ならではの愚かさです。
あの人の方が幸せ、なんで自分ばかりこんな目に合うのか・・・。
それはまるで銀座の柳がヒマラヤの杉をうらやましがるようなもの。
柳はヒマラヤでは生きていけないし、杉は銀座では生きていけないのです。
優劣はないのです。自分に最もふさわしい場所に自分は居て、自分らしく今生を全うすることが大事。
柳の人もいれば、白樺の人も、杉の人も、楡の人も・・・。
それぞれ、自分という樹にしっかりと年輪を刻みながら生きていくこと、
そこに意味があります。
ですから、何事も恐れず、自分という樹を強く、しなやかに、そして大きく成長させるための必要な出来事として捉えられるようになることが大事です。
大きくなった自分という樹は、家になったり、家具になったり、森の木陰になったり、朽ちてもなお、森の栄養になったり、終わるということはありません。
人と同じことは一つとしてありません。
今生、年輪を大いに増やしていきましょう。
こう思うと、年を重ねることや、いろいろな苦難も意味のあるものと理解できますね。