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  • 2021.08.18 Wednesday
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ほっと一息つきたいときに見る映画


おらが街の「目黒シネマ」で見逃してしまってずっと後悔していた映画、「かもめ食堂」を先日やっと観ました。
私はよっぽど惹かれないと邦画は観ないのですが、こちらはオールフィンランドロケ、そして話題づくりを出演者に頼らず実力派女優でまとめているというところが相当気になっていました。
作品は家具や食器、キッチンリネン等、北欧マニアの私にはたまらない魅力満載。
イッタラの食器も惜しげもなく使い、出演者さんのファッションも言うことなし。
一つ一つのカットの色や小物がこだわっていて、お気に入りの雑貨屋さんにいるような感覚で観れました。スタイリストとフードコーディネーターが作ったおしゃれな北欧雑貨カタログのような作品です。これは食堂の小物のこだわりを観てすぐに女性監督だな、と分かります。
前置きはこれくらいにして、内容はいたって淡々。おまけに現実離れしている箇所も多く、ある種ファンタジーとして観ないといけないのですが、異国で生活していくうえでは否定するのではなく、受け入れることに意味があるということを台詞でなく主人公の生き方から読み取れたり、なかなかいいのです。
また、
「やりたいことをやれていていいわね。」「やりたくないことをやってないだけです。」
「でもずっとおなじではいられないものですよね。人は皆変わっていくものですから。」

なんて、このあたりの台詞はたまらなく好きです。
特別なことなんてなくても、今を生き抜いていればそれが未来につながっていく、前向きな心持にぐっと引き込まれました。

なんだかほっと一息、ゆったりとした気持ちになれる貴重な作品です。

お疲れ様でした

大切な家族の一員、三男のマロンブランも生後8ヶ月を過ぎましたので、ついに去勢手術をしてきました。
普段は元気いっぱい暴れん坊の彼ですが、さすがに獣医さんでは緊張気味だったようで今日おうちに帰ってくるなりニャアニャアと文句をいい、散々甘え、ご飯を一気食いしていました。
気疲れと手術の疲れと大嫌いなエリザベスカラーのせいでもう今夜はぐったりのご様子。
母としては心が痛むのですが、正直長男のミュウを去勢しなかったがゆえに、スプレー行為のためにオムツをしてしのいだり、ケージに入ってもらったりと結局人と一緒に生きていくためには我慢をしてもらうことばかり。

人間の都合で去勢なんて許せない、このご意見もごもっともです。
けれどもそのためには猫専用のスプレーをされてもいい匂いの気にならない広い猫専用の部屋や、夜中に発情で大きな声で鳴いてもご近所に迷惑にならような防音設備、さらにはちゃんとお嫁さんをもらうことなどなど、物理的に都会のマンション暮らしでは無理なことばかり。
人間の都合で結局我慢してもらうよりは、去勢をしてその後は自由気ままに暮らしてもらうほうを選びました。
どちらが正しいかの答えはオーナーさんの考え方次第ですが、我が家の息子たちにはストレスの少ない幸せな一生を送ってほしいです。

さて、当の本人のマロン、エリザベスカラーが本当に嫌なようで凹んでいますが、
明日にはもう少し慣れて元気になってくれることを母さん心から祈ります。


名言

今日もちょっとヲタネタなのですが(苦笑)
画像からピンと来た方、そうです姫川亜弓嬢でございます。
ピンと来ない方、実は漫画「ガラスの仮面」のヒロインの北島マヤのライバルのお嬢さんです。
父は映画監督、母は女優という恵まれた環境に生まれ、もちろん才色兼備ですべてにおいて完璧といわれる少女なのです。
その彼女がシェークスピアの「ロミオとジュリエット」をひとり芝居で演じ、血のにじむような努力によってもちろん舞台は大成功。
このときの彼女の台詞で、

『わたくしが挑戦したのはきのうまでの自分自身です。
勝つことができてうれしく思っています』

という箇所があるのです。
この台詞を思い出すたびに、身の引き締まる思いです。
「私は自分に挑戦しているか、そして少しでも向上しているか。」

人は元来怠け者。
なかなか自分で自分に目標を与えそれを達成していくことは容易ではありません。
ましてやそれが仕事など逃げられない現実に直結していない場合、かなり難しくなります。
けれどもそんな時いつもこの台詞を思い出します。
あ〜勝ち負けどころか挑戦すらしていない・・・・
「亜弓さん、私もがんばります!!」
と夜な夜なそっと口に出して誓ってみたりしています。

大我と小我の例

なかなかこの大我と小我、わかりにくく、わかっても実践するにはかなりの強い意志と客観的に自分を見る力が試されます。
私がよく話す例をお話させていただきますと・・・

あなたは親だとします。
かわいい子供を授かり、もうその子のためなら何でもしてあげたい、という気持ちです。学校に上がり、子供が算数が苦手なことを知り、授業で宿題の答え合わせなどをした時に「できない」と思われる子供をかわいそうと思い、いつも一緒に宿題をし、解き方や解答を教えてあげたとします。
そこには、
・みんなの前でできないと恥をかいてかわいそう。
・頭が悪いと思われたらかわいそう。
・親が一緒にやってあげないのか、ほったらかしているのかと思われるのも嫌。
などなどいろいろな思いがあることでしょう。

一緒に宿題をしてくれる親を悪いとは誰も思いませんし、自分でも親として「正しい」ことをしていると思のが普通でしょう。
けれどもそこには、自分の子ができないと思われたくない、一緒にやってあげたい、恥をかかせたくないという自分中心な気持ちがあるのです。
これがいわゆる小我です。
結果子供は、できないことは恥ずかしい、親と一緒でないとできない、できない自分はいい子でない、困ったらお母さんが助けてくれる、という考えが起らなくもありません。

では、大我とは、できないといって解かる努力をしないことはいけませんが、
まず、
・できないことは恥ずかしいことでないことではなく、できるようになればいいだけのこと。
・まずは自力で考えることが大事。けれどもそれでも解らないことは解かるまで人に聞き、教えてもらうこと。
・解からないと自分の状況を人に言えるようになること。

このことを教えてあげることが大事です。
そうすれば人と比べて自分を卑下することもなくなりますし、すべて自分で完璧にこなさなければいけないという無理もしなくなります。
また、親に教えてもらう=親がいないとできない、という心配もなくなります。
私がいなくなったら大変、ではなく私がいなくても生きていける子にすることが大我ですね。

今回は親子関係で話しましたが、これは友達、仕事、恋愛、すべてにおいて置き換えることができます。
なかなか人には情があるので、冷静に割り切るのは難しいときもあります。とはいえ大我の行動は必ずよい結果をもたらします。
一緒にがんばりましょう。

涼しい振り

今日も記録更新の暑さでした。みなさまいかがお過ごしでしょうか。
夏の良さは清少納言女史のおっしゃるとおり「夏は夜、月のころはさらなり」だと私は思いますが、どうもこのところその夜さえも湿って重たい空気のままで夜であっても気がめいります。
そうなれば五感からやっつけていこう、ということで早速画像の蚊遣りと風鈴を買って、嗅覚、視覚、聴覚から涼しい「フリ」をすることにしました。
暑いことはどうにもならないので、自分の感覚をごまかしてしまおうという魂胆です(笑)
気持ちは体を支配しますから、あら不思議なんだかゆったりとした気分に。
目黒川をすり抜ける風もちょっと涼しくなった(気がする)ような。

変わらない周囲の環境を嘆く前に、自分が変わればいいことはこんな日常にも使えたりします。

気温40度。

13日の盆の入り。
義父の霊とともにすごそうということで、早めに義母の家に行く予定が、前日から次男グリブランがどうも体調不良の様子。
吐く、飲まない、食べない状態で獣医さんへ。
いつものとおり、まず体重を量るとなんと4.6キロ。
最近虚勢後の肥満防止のフードの効果が出てきたのか、虚勢前の体系に戻ったのね、と喜ぶ状態ではなく、母さんおろおろ。
というのも、巨漢グリちゃんはMAX時5.4キロあったのですが・・・ついこの間健康診断していただいたときも5.2キロあったはず。あまりにも急激に落ちすぎです。
原因は去年も起きた毛玉をうまく吐けないことからおきる胃酸過多、というもの。
とはいえ、この暑さ、スコットランドの系統の剛毛猫だけに、いくらクーラーの効いた部屋にいても夏バテはあるのかもしれません。
丸2日飲まず食わずでしたが、ようやく元気を取り戻し、一安心しました。
同じく長毛のミュウもじいさんねこということを差し引いても寝てばかりいて、確かに生き生きと駆け回っているのは短毛種のマロンのみ。
とはいえ、彼も昼間はクーラーの風がよく抜ける場所を陣取り伸びまくっていますが(苦笑)

ねこネタはさておき、今日も気温40度を越えた地域もあり、本当に「地球危うし」状態です。私は家のベランダになるべくグリーンを増やして最近では葉数が多い樹を置くようにしています。
ほんの申し訳程度ですがコンクリートの照り返しを防ぐため、という名目ですが、日々成長する植物を見るのもとても楽しいです。
それにしてもしっかり水遣りをしても、今年はもう5鉢以上強い日差しのために枯れてしまいました。
ねこにも、人にも、植物にも、40度越えは何とかしなくてはならないです。


30DAYS

私が今一番好きな番組の紹介です。
30日間マクドナルドのファーストフードを食べ続け、その危険性を自らの体を使って訴えた「SUPER SIZE ME」のあの監督、Morgan Spurlockの30日間体験シリーズの第2弾、「30DAYS」
第1弾では「ゲイと一緒に30日間」や「最低賃金で30日間」などどれも興味深いものでしたが、映画と違って、このシリーズは、「ゲイと一緒に・・・」だったらゲイは絶対に許せない、というようなまったく対極にある人同士を一緒に30日間生活させることによってお互いの理解を深める、というようなもの。
第2弾では、

・刑務所で30日間
・不法移民と30日間
・アウトソーシングを30日間
・人工中絶論争を30日間
・無神論者と30日間
・ニューエイジ体験を30日間
と、読んだだけでも面白そうなアメリカの社会問題テーマを題材に放映されました。
どの回も、正反対の考えを持つ者同士がお互いが意見を言い合いながら結局、反対意見の人々を拒否し、いがいがみ合うことではなく、互いを知り、理解しあうことがいかに大切か、ということがすべてに共通するテーマです。
また、どこに問題があるのかということを、決して説教くさくなく両者に公平な目で見ていきます。
映画のような夢の世界ではなく現実を知るためにはとてもよい番組です。

この番組を見て思うことは人の思い込み、偏見の恐ろしさです。
食わず嫌いと一緒で、知ってみたら目の敵にするほどいやではなかったり、互いの立場を理解し、受け入れることができたり、と人としての寛容性の大切さや、無意味な誤解など、頭ごなしに決めないことがいかに大切であるかを感じます。
以前フジ子ちゃんも言っていましたが、人間の気質で最高なものは寛大さであって、自分と違う人を受け入れることによって争いも起こらなくなるということですね。

本来譲れない思想があるということは実はまじめな証拠。
いい加減な人ならどうでもいいやと無関心でいられます。
いろいろ譲れないものがある場合、ちょっと視点を変えて敵を知ると、お互いに認められる部分も見つかるかもしれません。
人の最大の敵は無関心ですから。

62年

62年前の今日、午前11時02分にアメリカ軍は3日前の広島に引き続き長崎に原子爆弾をB29(ボックス・カー)によって投下しました。
広島の原爆はリトル・ボーイと呼ばれ、ウラン爆弾でしたが、長崎のものはその爆弾の形状にちなみファット・マン(太っちょ)と呼ばれ、ウランよりも破壊力の強いプルトニウム爆弾でした。

爆弾は高度500mで破裂し、一瞬にして7万4千人の尊い命を奪い、負傷者は7万5千人にのぼりました。その威力はなんと8000度。
そのまさに地獄絵図のような状態を(ここではあえて描写は控えますが)皆さんは聞いたり、写真や絵をご覧になったこともおありかと思います。

私の大好きな美輪様も何かのふいにちょっと窓から家の中に体をひっこめた瞬間にフラッシュのようなものすごくつよい光が差しこみ、一瞬にして何もかもが変わっていた、とおっしゃっていました。
幸いにも命をつないだ方々も放射能の後遺症としての癌、白血病、ケロイド、小頭症、原爆白内障などに悩まされ、今もなお難儀な生活をされています。

最近では「原爆投下はしょうがない」ととんでもない事をいった政府官僚もいましたが、まるで他人事。口で核廃絶だの反戦だのというのは簡単なことです。
(これは広島が題材ですが井伏鱒二氏の「黒い雨」でも真剣に読んで欲しいです。亡くなった人も生き残った人もどんなに辛い目にあったか!!)

唯一の原爆被爆国として毅然たる態度で世界に戦争の無意味さ、悲惨さを思い出にすることなく伝えて主張していかなくてはと思います。水に流せない過去もあるのです。(正直、もっと戦争の絶対反対・放棄を国民、そして国レベルでアピールしたいところですが、何せ非資源国、かなしいかななんでも何でも輸入に頼り、自力では何もできないことを実感するばかりです)

ともあれ、今の自分たちの幸せは先人の涙の上に成り立ち、それは幻のように危うく、永遠ではないのだということを意識しつつ、未来にも平和をつなげていくことに真剣に向かい合っていきたいと思いました。


あなたのため

自分が思っているように相手にとって自分が大事でないと感じた時。
「私はあなたのことをこんなに考えているし、あなたのためと思ってこんなにやった」と相手を責めたり、「自分は相手にとって必要なかったんだ、私のしたことに意味はなかった」とひどく落ち込んだりします。
けれども何故そうなったかを考えることに意味があります。

こんなにやった、だから感謝して欲しい、だから私も受け止めて欲しい、同じように私にもして欲しい。
どこかにこんな見返りを期待していわゆる「あなたのため」をしていなかったか。

本当の「あなたのため」は見返りを期待しません。
そしてたいてい、本当にして欲しいことをすることができています。

その反対に見返りを求める場合は私がこうしてあげたい、私だったらこうして欲しい、という「正直頼んでいません」といいたくなるような一方的な押し付けが多かったりします。

親子の関係で多くみられますが、勿論、恋愛、友達関係でもよくみられることです。

本当に相手を思う気持ちは時には「突き放す」ことであり、人からは冷たい、といわれる行為に映ることもあります。
けれども大事なことは他人がどう判断するかではなく、自分の動機が自分をいい人と思われたい、優しい人と思われたい、自分に優しくしてほしいという小我でなく、本当に今相手に何をすることが必要で、自分には何ができるのかを客観的に考える大我の気持ちが必要です。

自分がかわいい、その気持ちから卒業できた時に本当に相手のための行動が取れるのです。

依存と期待

あれだけ悲惨な事故が多発しているというのにもかかわらず依然としてなくならない飲酒運転。
ニュースでコメンテーターが「飲酒したら動かなくなる自動車をつくる必要があるかもしれませんね」、なんてコメントしていたのはつい最近のことと思いますが、日産自動車がシフトレバーと座席の肩の部分にアルコールを感知するセンサーをつけた自動車を開発しました。
シフトレバーは運転時必ず触れるので手のひらの汗に含まれるアルコールを感知するとロックがかかってシフトが入らなくなる仕組みでした。
おまけにドライバーの顔向けにカメラをつけ、センサーがドライバーまぶたの部分の開閉を感知し、うつらうつらしているような状態が続くとシートベルトを強く引っ張るという仕組みも同時に開発し、実現していました。(市販車ではないので、まだ実験段階かとおもいますが。。。)

こういう話を聞くと赤ちゃんポスト設置の時のように、そもそもそういうものがあるから頼ろうとして、本来自分で判断していくべきもので、必要はなく、あることによってもっと悪くなる、という声も少なくないと思います。
確かに、飲酒したら車に乗らない、眠くなったら休む、育てられない子供はつくらない。
これは当然のことです。
けれども、それを当然として受け止め自己管理できる人には要らないものですが、全ての人がそうあるかというと結局のところ想像力の欠如からこれくらいなら大丈夫だろうと高をくくって飲酒運転をする人、眠いけれどもうちょっとで到着するから休憩しない人、子供を育てられないから捨ててしまう、虐待してしまう、そういった人はゼロにはならないのです。
自分が自己管理できることは誰もができて当然というのはある意味自分という視線だけから世間を見ている依存ということになります。
むしろ自分も今まで想像もつかなかったような状況に追い込まれることによって、犯してしまう可能性もゼロではありません。

理想は自己管理を完璧にして、想像力に富み、マニュアルでなく自分でどうすることが正しいのか判断できる人間ばかりになることです。
けれども完璧な人間が皆無であることは誰もが知っています。

ですから、自分が必要ないから必要ないではなく、違った角度から物事を見たり、判断したりできる余裕を持てるように広い視野を持っていきたいものです。
その余裕こそ本当の意味の「想像力」ではないかと思う今日この頃です。

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