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  • 2021.08.18 Wednesday
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ペーサーでなく、伴走すること。

人間関係をスムーズにするポイントはいくつかあります。そのうちのひとつが「ペーサーでなく伴走者になる」です。

カウンセリングを始めた当初から「家族、友人、恋愛、仕事・・・人間関係で苦労する」という悩みを持つ方に共通するのが、

 

「生真面目で、正義感が強く、曲がったことが大嫌い」

「困っている人を見ると放っておけない」

「自分のことよりも人を優先してしまう」

「人から頼られることが多く、期待されると嫌と言えない」

「相手の気持ちを先読み、先回りするのが“デキる人”と思っている」

 

という傾向が多く見受けられます。

どの方も”しっかりした、きちんとしているいい人”なのですが、なぜうまくいかないのでしょうか。

 

多くの場合、

 

「気が利かない自分が許せない」

「自分が簡単にできることを相手ができないと、すぐに手を貸してしまう」

「自分がしっかりして人を引っ張らねば、と頑張りすぎてしまう」

「私がしてほしいことは人にもしてあげるべき、と思い込む」

「自分の中の“普通人としてこうあるべき”という正義を通そうと、他者に自分を重ねて見てしまう」

 

という動機が多いようです。

 

その結果として、

 

「相手がやってもらって当然、と思うようになってしまい、利用されている気がする」

「親身にアドバイスしたのに、相手の行動が全く変わらず空しい気持ちになる」

「自分ばかり仕事の負担が増え、圧倒的に仕事量が増えてしまった」

「正直で頑張っている人が馬鹿を見るようなことになる」

「きちんと責任を持った行動をとらない人が許せないし、ストレスがたまる」

 

と、なんでこんなことになってしまうのか、自分が悪いのか、人間関係に恵まれていないのか?

など、負のスパイラルに入り込んでしまいます。

 

このような状況になってしまうのは、例えば親が「あなたのために」といろいろと口出しすることを、「あなたのためと言われても、有難迷惑で頼んでいません」と快く思わないことと同じで、その根本には「私のことを心配しているのではなく、自分(親)が安心したいだけ」という相手の小我が見え隠れするからです。

 

「人のために」と言いながら、自分が「こうありたい」という動機で行動した場合や、相手に対して「やってあげる」という傲慢な気持ちが自分の中にあると、いい結果につながらないということが起きます。

 

だからこそ、常に

 

「自分がどうしたい」ではなく「自分がどう行動することが、相手のためになるのか」

という視点を持つこと。「自分だったら」という感情にとらわれず、相手のペースに合わせて気づきを待ったり、寄り添うことが大事です。

 

というのも、すべての人に最適なタイミングで必要なことが起きるのですが、その大事な学びを自分が知っていたり、できるからとやってしまったら、相手の成長のための経験と感動の横取りになり、余計なお世話となってしまいます。

 

導いてほしいと望んでいない相手に、「こうしなさい、ああしなさい、こうするべきです」と引っ張ろうとするのではなく、「どうすることが一番相手の成長につながるのか」をしっかり分析するようにしましょう。

 

いつもだれかが代わりにやってくれると、そのツケはどんどん大きくなっていきます。

だからこそ、自分に必要なことは自分でできるようにならなければ意味がありません。

 

これが伴走者になるということです。その結果、人間関係で自分ばかり我慢したり、自分の思い通りにならない相手にイライラすることはなくなるでしょう。

 


失うものはない

ここ最近、いろいろな方とお会いする中で、

 

「いつも同じところで躓いてしまう」
「自分に自信が持てない」
「失敗したら、と思うと怖くて行動を起こせない」


というお話をよく伺います。

 

そしてこの気持ちに共通している学びのひとつに、
「失うことへの恐れ」

があります。

 

確かに誰でもできれば失敗したくないですし、上手くいかなかったら立ち直れないかも、と不安になることもあるかと思います。
けれども、実はその「失うことへの恐れ」こそが自分が本当に幸せになる邪魔をしているのです。

 

いつもお話ししている通り、自分にとって越えられないことや意味のないことは起きないもの。
必ず自分が気付かなかったり、対峙したくないと逃げている自分の弱点や、乗り越えるべきこと、学ぶべきことを知らせているのです。

 

皆さんもこの「ヘレン・ケラー」の名言をどこかで耳にしたことがあるかと思います。

 

「ひとつの幸せのドアが閉じる時、もうひとつのドアが開く。
しかし、よく私たちは閉じたドアばかりに目を奪われ、開いたドアに気付かない。」

 

彼女の言葉だからこそ、たましいに響く重み、真実味があります。

 

そして、すべての人において閉じたドアは「失った」のではなく経験を「得た」だけのことなのです。
そして経験は物と違い、何者にも奪われることも失うこともありません。

 

自信は経験しないと得られないものですから、
常に何かを失うのではないかとびくびくして生きたり、逆に強がって突っ張っても自分が苦しくなるだけです。

 

だからこそ人間力を高め、失うことの恐れから卒業し、本当に幸せになるために

 

一つのドアだけだと思っていたけど、よく見てみたら多くのドアがあるのだな、ということに気づくこと。

閉じたドアにとらわれてばかりいないで恐れずに次のドアに目をむけること。
次のドアを開く勇気を持つこと。

 

この経験を重ねた分だけ自信がつき、世界が広がります。

閉じたドアにとらわれず、開いたドアを恐れずに開けてみましょう。


困難な道を選ぶ理由

よく偉人、成功者と言われる人が「人生の岐路に立った時や迷った時は、楽な道でなく困難な道を選ぶ」という言葉を残しています。

 

困難な道を選ぶには勇気がいりますし、「上手くいきそうか、成功しそうか」という結果を求める気持ちがあるのは当たり前。

 

けれども、困難な道を選ぶことで良い経験ができたり、結果が出るということには根拠があります。すべての人は前世で経験できなかったこと、克服できなかったこと、それらを学ぶために生まれてきて、個々の成長に必要なことが最適なタイミングで起きるようになっているからです。

 

ですから、そこから逃げてしまっては意味がなく、逆に気づきを促すためにより事が大きくなるだけなのです。

 

「どうしよう」と不安な気持ちが起きるのは、そこに自分が乗り越えるべき課題があるというおしるし。
多くの人は「順風満帆が幸せ、苦難は不幸」と思いがちですが、苦難は自分の克服点をあぶりだしてくれます。常に無難で楽な方を選んでいたら、何の学びもなく、まったく意味がありません。

 

ドッジボールを例にすれば、どんなに上手に逃げ続けても、当たるかもしれないというリスクを承知の上でボールを受け止めて相手にぶつけない限り、ゲームは終わりません。

 

だからこそ、自分の克服点に勇気をもって取り組む=困難な道、を選んだ結果、経験値が増し、人間力が鍛えられ、心が成長することで、結果が後からついてくるわけですね。

 

大事なことは結果を出すことだけではなく、経験することで自分を成長させることです。
上手くいかなくても、次はどうしたらいいかを知る素晴らしい経験です。自分に必要のないことは決して起きません。だからこそ勇気を出して困難な道を選んでみましょう。

必ずその経験、努力は自分を成長させてくれます。


運命論者にならないために

スピリチュアリズムを唱える人たちの中にはともすると現実逃避の方便として「そういう運命だった」、とか「これは導きだ」「そのままの自分でいい」など、すべてのことに意味があるということを逆手にとって、出来事の意味を分析せずに自分を正当化するための一時しのぎの逃げ場として利用してしまうケースが少なくありません。
その結果、世間知らずだとか、現実と向かい合えず逃げの人生を送っていると思われたり、守護霊がこうしろと言っている、などと周囲を「また始まったよ〜」とあきれさせてしまうようなことになりかねません。

本来自分がスピリチュアリストとして言葉と行動が伴い、常に物事に対して理性的な判断をして明るく朗らかに、愚痴を言わず、人に優しく思いやりのある言動ができていたら、周りから「あなたはなぜそんなにぶれない軸を持ち、周りの人がをも幸せになるような生き方ができるのか」と自然にその秘訣を知りたいと興味をもたれるものです。

私自身もカウンセリングの際に必ず皆さんにお話するのですが、
人は良きにつけ悪しきにつけ、理にかなっていないことが起きた時に、その原因をつい何かや誰かのせいにしたがる傾向があります。
それは運命だったり、神様やご先祖様の影響だったり、バチがあたったと思ったり、前世の行いだったり、占い、方位や字画、風水等々・・・きりがないですね。
このような時、人は感情に流され判断を誤り易くなります。

皆さんもよく、耳にされたことがあるかと思いますが
別れた彼(彼女)と○年ぶりにばったり会ったのは、本当は彼(彼女)と結ばれる運命だったからでしょうか、とか、
この仕事がうまく運ばなかったのは、するなということだったのでしょうか、などと
自分の何を試されているのかということを分析しないまま自分に都合のいい理屈や一般論で判断してしまう危うさがあります。

それでは正しい判断はというと、何か起きた時にいつもの原点に戻って「波長でおきたのか、カルマでおきたのか、おしるしでおきたのか」これを自分に当てはめて理性で分析することです。

たとえば何かの試験に落ちたのなら
・単純に自分の努力不足なのか
・好きか、やってみたいかの前に憧れだけでこの方がかっこいいからなどと人からどう見られるかを気にしていたからか
・この資格があれば後々仕事に困らないだろうなどと保身前提の小我な動機で受けていたからか
・今はまだその時ではない、というメッセージなのか
等々、各々の生まれた意味と行動、そして今生の学びに対して全くその意味は違ってきます。

ですので、常に自分にとってどんな意味があり、何を学ぶためで、どんな自分の未熟な部分があぶりだされているのか、
そこを重点に判断していかなくては何度も同じ目にあったり、いつまでも懲りない成長のない人になってしまいます。

一度だけの今生ですから、教典主義や運命論者にならない様、悔いのないよう自律して常に冷静な内観、分析のもとに自分の人生を生ききりたいですね。

理解されるよりも理解することを。

このところストーカーや近隣トラブルによる殺人など、変わらない相手や状況を非難するだけで自分が理解される事ばかりを求め、相手を理解しようとする気持ちが足りず、その結果、悲惨な結末を迎えてしまう事件が後を絶ちません。

いつもお話ししているようにすべては必然。
このような事件は私たちは何を学ばせようとしているのでしょうか。

まず、このブログでも何回かご紹介したことのある「聖フランチェスコの祈り」の中にもある通り、

ああ、主よ、わたしに求めさせてください
慰められるよりも慰めることを、
理解されるよりも理解することを、
愛されるよりも愛することを。


自分だけを大事に思う気持ちから卒業して、本当に相手のためになることは何かを考えることのできる自分になれるか。
また、いつもお話ししている通り、
変わるということは成長することで、成長することで幸せになる。
変わらないということは成長もなく、その結果不幸なままである。

このような頭では理解できていることをいかに魂まで落とし込んで理解しているか。
ここが一人一人の心に問いかけられているのです。

ストーカー事件も、彼女の心が離れてしまったけれどもまだ好きな気持ちは変わらないのなら、「別れたくない、別れることは許さない、自分のものにならないならいっそ死んでしまえ」
と自分本位ではなく、
彼女の心が離れても自分の彼女に対する気持ちは何ら変わらず、いつも、誰よりも幸せを祈っていると、あきらめられないことを強調するのではなく、いかに自分にとって相手が大切な人なのか、愛する気持ちを伝えておけばいいのです。
そうすれば今後別の人と彼女が付き合ってもその彼女は自分を忘れることができないかもしれないし、場合によってはまた付き合いたいとなるかもしれません。
また、そのようなことがなかったとしても、一生の思い出として別れてしまったけどとてもあたたかな人だった・・・と素敵な思い出として相手の心に残ることでしょう。

また、近隣トラブルの場合も、日頃から「きれいなお花ですね」とか「園芸がご趣味なのですか?」などと相手の大切に思うことに興味を示してコミュニケーションをとっておけば、道にはみ出して置いてある鉢をどかしてほしい時に「邪魔だ、どかせ!」と乱暴に言ってトラブルになるよりも、
「誰かに鉢を倒されては大変だからもう少し内側に入れた方がいいかもしれませんね」などと言えば自分の花を自分のように大切に思ってくれている人が言うのだから、もう少し寄せた方がいいかな、などと思うものです。

人は自分に優しくしてくれる人に対して自分も優しくすることは簡単ですが、嫌な人に対して優しくなるのはその行動の本当の意味を理解していないと難しいものです。
つい、「相手が悪いのになんで私が変わらなければならないの、変わるべきは向こうでしょ」などとなってしまうわけです。

変わらない相手を非難ばかりして自分が変わらなかった結果、殺人という不幸、最悪の事態を招いてしまいました。
けれども変わることは決して負けではなく、自分の成長のため、そのために苦難があり、変わったその結果幸せになるのだと分かっていたら・・・と思うととても残念です。

人はつい「あの人がこうだから、こんなことしてきたから」などと他人に焦点を当てて物事を判断してしまいがちですが、真理は、今この状況が自分に何を学ばせようとしているか、何故この経験しているのだろうか?を理性でジャッジできる自分になることで成長することを試されているのです。
なのでここを理解し、実践できないうちは、同じことが繰り返されるだけで幸せが遠のくばかりなのです。

自分の幸せは相手の幸せ。相手の幸せは自分の幸せ。
常に相手を理解しようとする気持ちがあれば、おのずと自分の言動は変わり、深みを増し、周囲の人までもが気持ちよく過ごせる、そんな状況を作り出すことができるのです。


誰もができることを誰にもできないくらい繰り返すこと

金曜日に毎年秋恒例、美輪様の「ロマンティック音楽会」に行ってまいりました。

春は舞台、秋は音楽会、思い起こせばもうかれこれ20年以上私の生活の一部になっている大切な心の栄養源です。

丁度先日心理カウンセラーの先生から、
「新しい能力を身に着けるには、誰もができることを誰にもできないくらい繰り返すこと」
というピーター・F・ドラッカーの言葉をご紹介いただいたのですが、まさにこの時私は美輪様のことが真っ先に思い浮かびました。

この誰もできないくらい繰り返している実践があるからこそ、美輪様の歌、言葉には重みと真実味があり、そして多くの人の心に届くのだ、と。

その時人を感心させるような口当たりのいい言葉を言うことはテクニックでいくらでもできるようになりますが、自分の経験値が上がったり、俯瞰でものが見れるようになると、何とも陳腐なものに感じられたり、まるでメッキがはがれるように、輝きを失っていきます。

けれども経験と感動と、実践に裏打ちされた言葉は、重みがあり、オリジナルであり、何十年経っても輝きを失わず、自分の成長に合わせるかのように毎回違った感動と学びをもたらしてくれます。

私は10代で美輪様を知り、物事の真実を見抜く目を養わせてていただき、感謝ばかりなのですが、そこで終わらず、この軸を太くより強いものにしていきたいと思いました。

美輪様の舞台や音楽会同様、それが本物であれば何度も繰り返すことで更に新たな何かが見えてきます。
皆さんも馬鹿らしい、意味がないなどと思わずに繰り返しの先に見えるものを信じて歩き続けてみませんか。
ここに偉大な生き証人がいますので(笑)

良いニュースは小さな声で語られる

昨日今日と冷たい雨と共に急に冷え込みましたが、明日からはまた暑くなるようですね。

さて、恒例になりました「スピリチュアリズム勉強会」ですが、昨日も波長で集まった皆様と有意義な学びの時間をご一緒させていただきました。

今回ご参加の皆様は今までスキルも経験も積み上げてきたものの、どこか義務感で走り続けてきただけで、「そこに自分がなかったのでは・・・本当に自分のしたいことをしてきていなかったのでは・・・」というもやもやを乗り越え、自分のなりたい自分になるための一歩を正に踏み出さんという状態の方ばかり。
だからこそ頭では分かっているものの、実際には自分に自信が持ちきれなかったり、無難におさめようとしてしまったり、どうしても自身の思い癖からなかなか脱しきれない状態でしたが、奇しくもこの日のスピリチュアルメッセージは本当に覚悟して努力することで必ず道が開けていくという内容のもので、私自身を含め、改めて今生のテーマを実感させられました。

人は過去世で経験してこなかったことや克服できなかったことを現世で実践しようとするとき、必ず不安という気持ちが起き、失敗したくないがために一般論や、多勢の意見に流されがちなものです。
けれども実は自分の心の声に耳を傾けることが一番大事なのです。
そしてそうすることでしか、なりたい自分になることができません。
ありのままの自分であるということはそのままの自分でいればいい、努力しないということではなく、人と比べたりせず、自分の生まれた意味に対して真摯に取り組んで内観し、自律していくということなのです。

さて、題名の「良いニュースは小さな声で語られる」は村上春樹著「ねじまき鳥クロニクル」の一節なのですが、
現世においてはとかく悲惨な事件であったり、人の陰口であったり、根拠の無いゴシップがさも事実の様に語られ、人が群がります。
それだけ、多くの人が情報に流され自律心を失い、不安を抱えて生きているからでしょう。
そしてそこに、自分で判断せずとも「これこれこうなんですよ」と誰かが断言してくれることで安心したいという心が現れているのかもしれません。

ですから、自分の軸をしっかり持って耳を澄まして心を穏やかにしていないと、いつまでたっても自分に向かって良いニュースは語られません。
良いニュースは小さな声で、こっそり語られるのです。
自律無くしては決して聞こえてこないのです。

良いニュースをしっかりと聞きとる耳を持ってより自分の心とたましいをを磨きたいものです。

共に学ぶこと。

残暑の厳しい毎日ですが、皆さまお変わりなくお過ごしでしょうか。

さて、去る25、26日の2日間、恒例になりましたスピリチュアリズム勉強会を開催いたしました。
お暑い中、ご参加いただきました皆様には心より御礼申し上げます。

そして今回のテーマは「0か100か」「他利が言えても私利が言えないというコミニュケーション不足」でした。

頭の回転が速く、頭で何でも考えて結果を出してしまって知識は十分あるのになかなか動き出せず、完璧にできないなら(100でないなら)ゼロにも等しいと自分を過小評価してしまい、なかなかスタートを切れないという共通点や、
また、長い時間をかけて真摯に取り組んだことでも何が何でも活かそうという欲がないので、なかなか周囲に理解されず辛い思いをしたり、
「0か100か」が悪い方に出ると、採算重視になってしまって今から始めてもはたして成功するのかどうか、など始める前に出来っこないと決めつけてしまったり、
実は自分で自分を苦しめていることがいろいろとみえてきました。

また、「普通、人としてこうあるべき」という依存と期待を相手に対してしてしまう思い癖のために、「察する」ということが自分にとっては当たり前なので、ついつい言葉で確認をせず、相手も自分と同じように分かっているよね?と思い込んでしまう思い癖の結果、どうなっていくのかを細かく分析することから始まりました。
また、なぜこういったシチュエーションが次々とやってくるのかということをご自身の過去世からの課題と生まれた意味から紐解いていきました。

ふたつに共通するのは大我が小我かその動機によるということです。
完璧でなければ欠けた部分を突かれたら怖い、失敗したくないという自分だけを可愛いと思う気持ちが先立ってしまって行動できないのは小我。
本当に相手を思えば何をしていくにつけ完璧に到達することはなく、常に向上していくものなので、欠けた部分を知るからこそその部分を克服して補いながら向上していこうとする大我なのか、その違いです。

そしてまた自分の思いを話すことは相手への押し付けになるのではないかと思うのは小我。
厳しい言い方をすれば自分が厚かましいと思われたくないという保身の気持ちです。
反対に自分の思いをきちんと伝えることと、相手の気持ちも伺う、心を通わせる努力をする、これが大我です。
自分がどう思っているかを伝えることで、相手もどう接したらいいかが分かりますし、
相容れない場合は話し合わなければ、と対処法が見えてきます。
どちらかが我慢していてはいい関係は築けません。

このような事を中心に連日、より深く学びあうことができました。
きっと多くの方も同じような経験がおありになることと思います。

同じような学びを持つ他の方のお話を聞きつつ一緒に学びあうことでまた新しい自分が見えてきます。
皆さんも是非、一緒に学びを深めましょう。

霊的真理を理解する一歩。


また今日から猛暑の夏が戻ってきましたね。
熱中症対策など、体調管理に気を付けましょう。

さて、今月も21、22と2日間、スピリチュアリズム勉強会が盛況のうちに終了しました。
これもご参加いただいた皆様が真摯に会に取り組んでくださったからこそ。
心より御礼申し上げます。

今回は職場や日常の人間関係の中で、自分とは価値観もペースも全く合わない人と何故出会い、どのように対応し、自分がそこから何を学んでいけばいいかというようなことや、家族の在り方などを自分の生まれた意味から分析して、受け入れ、どう乗り越えていくか、という一番身近かなことがテーマになりました。

そして、そういった場面で自分の気持ちをどう相手に伝えていくことが、自分の学びになり、自分の経験値を高めて行けるかというようなところにまで話を深めていくことができました。

また、供養や占いとの付き合い方なども実例に即して話が進み、個人カウンセリングとはまた違った視点で皆さんご自身の今生を見つめ、どのように他者と関わっていくことが大我であり、小我であるのか、その結果どんな未来が待っているのかを、波長・カルマに即して学びより理解が深まりました。

そしていつものお決まり(笑)の会の終わりにはみなさん素敵な笑顔になってお帰りになる姿に、私も感謝でいっぱいの気持ちになりました。

会は4時間という長時間を設けているのですが、話は尽きません。今後はテーマ別に絞っての開催もいいかな、などと思いました。

8月も開催予定です。
事前のお問い合わせもお受けしておりますので、ご参加を是非ご検討くださいませ。
次回も今から楽しみです。


※画像のお花をNちゃんよりいただきました。
相手の負担にならないちょっとした心遣いが当たり前にできる女性は素敵ですね。

より深く学ぶ

先日ご案内させていただきました「スピリチュアリズム勉強会」を先週末22,23と連日開催いたしました。

去年から開催していたお食事会では深く追求してお話しすることが難しく、もっとスピリチュアリズムを理解したいという声を多数いただいておりました。
そこで今回からは「スピリチュアリズム」とはいったい何ぞやといった基礎のおさらいからご自身の人生のパターン、それに気付かせるべく起こる出来事等々細かくお話をして、照らし合わせていきました。

またいつもお話ししているようにご参加の皆さんの波長が合い、学びが一致するのでみんなでお話をしつつ、進めていきました。

その中でも頭では分かっているけど行動が起こせず変われない自分に対する分かりやすい苦難がおこったり、言葉にするのが苦手で相手に自分を理解してもらうために何度も同じような問題が起こったりすることを改めて理解したり、はたまたご先祖の供養やお墓のことまで、時間いっぱいお話をすることができました。

また、ご参加の皆様からうれしいお声をいただいたり、ご丁寧に素敵なお葉書を下さった方もいらして、ご参加された皆さんがより自分らしく今生を生き、たましいの成長のためのお手伝いができたことを何よりも幸せに思います。

これからも月2回程度で開催予定ですので、是非ご参加くださいませ。

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