スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

  • 2021.08.18 Wednesday
  • -
  • -
  • -
  • by スポンサードリンク

あなたが主役

2020年もすぐそこ。

今年は暖冬のせいかあまり師走感もなく、大晦日を迎えました。

 

2019年は平安に足すくわれる「だましの年」の通り、

いろいろなことが信じられない、大丈夫だと思ったものが大丈夫でなく、

時事問題を振り返っても「普通こうあるべき」が通用しない、知れば知るほど

一体常識ってなんだんだろう?

と首をかしげることばかりでした。

 

そんな今年の締めくくりにふさわしい言葉を記しておきたいと思います。
 

何が流行ってるとか

それが常識だとか

人が思っても私が思わない限りは

私は私が見つけた答えで

生きていきたいと思っています。

 

人生をどう受け止めるかも

私が主役なの、あなたが主役なの!

 

世界ではこれが常識だとか

日本人はこうあるべきだとか

forgetしてそんなことは

 

あなたはどうしたいのか

私はどうしたいのかだと思うのです。

 

先月帰幽された女優木内みどりさんの言葉です。

常に自分のオピニオンを持ち、自分の言葉で話す、この言葉通りの素敵な大人でした。

 

たくさんの情報に惑わされず、「自分が主役、自分はどうしたいのか」

責任主体で自分の軸を持って生きることで

どんなことが起きても誰かや何かのせいにすることなく、納得のいく人生を送ることができます。

 

正解は自分の心の中にあります。

2020年、どんな自分になりたいですか。


簡単な気持ちのコントロールの仕方

現代人の多くが呼吸が浅く、慢性疲労や不眠、頭痛、不安、PMSなどの原因になっているといわれています。

 

今から5年前のブログに「頭の位置が人の心に与える影響」について書きましたが、実はリラックスするためにもそれにふさわしい姿勢があります。


焦っていたり、緊張や不安から舞い上がってパニック状態になっているときは、重心が上にいっています。

「頭に血が上っている」などと言いますよね。
そんな時は上半身ばかりが前に出て、意味もなくうろたえたり、足元がおぼつかず落ち着きがなくなります。


人は落ち着いてリラックスしているとき、ゆとりがあるときには重心が下がり、焦っていると重心が上がるといわれています。

なので、緊張しやすい人や感情の起伏が激しい人、イラっとしやすい人、焦ってパニックに陥りやすい人などは

丹田(おへその下あたり)を意識して腹式呼吸をすることで重心が下がり、驚くほど気持ちが落ち着いてきます。

 

凝り固まってしまった自分の心やマイナスな想いを

「落ち着いてプラス思考になるんだ」「不安に思わないように」「自分が我慢すればいいんだ」

などとプレッシャーをかけても逆効果です。

 

無理やり思い通りにしようとするのではなく、

先の”頭の位置を高くすればプラス思考になる”ことと同様に

緊張を沈め、リラックスして物事に取り組むには腹式呼吸で単純に重心を下げればいいのです。

その行動が気持ち(精神)に作用します。

 

体と精神の関係はとても密接で、両方向からコントロールすることが可能なのです。

早速実践してみてくださいね。


夏越の祓

今日6月30日は「夏越の祓」(なごしのはらえ)と言われる年に2回の大祓の日です。
午前中は雨が降り浄化にふさわしい一日でしたね。

 

この時期、神社で大きな「茅の輪」を見たことがある方も多いのではないでしょうか。
大祓の歴史は古く、古事記の中にも書かれているほどです。

 

「祓い」という通り、人形(ひとがた)人形代(ひとかたしろ)(とよばれる紙を人の形に切り抜いたもの)に穢れを託して、神社に設置された「茅の輪」を祝詞を唱えつつくぐることで、新年からの半年間の穢れを祓い、これからの半年の無病息災を祈願するものです。

古くは疫病などを祓う目的でしたが、現代では自らの小我を祓うといってもいいかもしれませんね。

 

「茅の輪」は須佐之男命が旅の途中、宿を求めた際に裕福な兄、巨旦将来(こたんしょうらい)は宿を供さず、

貧しいながらも手厚くもてなしをした弟、蘇民将来(そみんしょうらい)に対し、須佐之男命が

 

「流行り病の際には茅で作った輪を腰につけて難を逃れるように」と教え、

 

その後、流行り病が蔓延し、兄の巨旦将来の家族は病に倒れてしまいましたが、須佐之男命教えを守った弟の蘇民将来たちは難を逃れたのが由来とか。
※蘇民将来は伊勢の注連縄でもその子孫であることを記したお札を付けることで無病息災を願うものがありますね。

 

江戸時代以降は茅の輪を腰につけるのではなく、大きな輪をくぐる今のスタイルになったということです。

 

そして明日は大祓の後の朔日参りです。
氏神様に詣でてひと月の感謝とともに、自分の穢れを内観し祓い、今年後半のスタートにふさわしく誓いを立ててみてはいかがでしょうか。


自分がすり減らない仕事の取り組み方。

去年末からすっかりブログの更新が滞っておりましたが、実はとても大事な試験があったり、今年から定休日はパートナーの仕事を手伝うことになったりと、お休みがなくなりバタバタ過ごしておりました。


そんな中、「毎日お菓子を作るのは大変じゃないですか?」とお客様によく聞かれるのですが、どんなに忙しくてもお菓子を作る時間は私にとってとても幸せな時間。


カウンセリングの時にもよくお話ししていますが、好きなことなら傍から見てどんなに手間がかかる大変なことでも、当の本人は全く苦労と思わずにできるものです。


そして、好きなことをさせていただけるのは、今ある仕事のおかげ、と感謝の気持ちが持て、相乗効果をもたらします。


苦しくなって行き詰まる理由は、生きるための仕事「適職」と生きがいややりがいを満たす「天職」のこの切り分けと同時進行ができていないことが多いです。
どんなに頑張り屋さんでも「生きるため」にだけ仕事をする毎日では、「いつまでこれが続くのだろうか」と疲れてすり減っていってしまいます。
その結果「こんなに自分は頑張っているのに」とままならない人や状況に対しても否定的になり、出口が見えないことに不安になったり焦りを感じてしまうこともあります。

生きるために自分の特質を活かして会社や社会に貢献して、お代を堂々と頂ける適職。

好きか、やってみたいか、達成感や満足感はあるけど、すぐに安定収入につながらない天職。

まずはこの2つを同時進行してバランスよく仕事に取り組んでいくことが、すり減らないことへの第一歩です。

適職という義務を果たしながら、天職という権利を主張してなりたい自分になるために、上手くいきそうか、成功しそうかと目先のことにとらわれ、早く結果を出そうと情報に惑わされて自分を見失っていないか、なりたい自分はどんな自分なのか、その軸を常に見つめなおすことも併せてしてきたいですね。


一番若い今がはじめ時!

パン好きが高じて、去年の5月下旬から通い始めた天然酵母を使って手捏ねで作るパン教室。

同じクラスの方も皆さんとってもいい方ばかりで、3週間に1回というゆったりしたペースも気に入り楽しく学んできました。そして、先日ついに集大成である師範認定試験に合格し、晴れて人様に教えることができるようになりました。

とにかくからだにやさしい安全でおいしいパンが食べたい!という気持ちだけで続けてきましたが、「四十にして惑わず」どころか、実は私はパンやお菓子作りが好きだという新たな発見がありました。

人が何かを始めるにあたってよく耳にするのが、「この年からはじめてもね〜」とか、上手くいきそうか、成功しそうかなど、採算を考えてしまうことが多いかと思います。
けれどもいつもお話ししているように、大事なことは結果ではなく経験。何をするにも、思い立ったその時が一番若いのです。

だからこそ、一日でも早く本当の自分に気づくために、年齢は関係なくまずは経験・実践から。誰かの知識や方法論では自分自身を知り、活かすことはできません。

一歩を踏み出すことから道が開けていきます。
そのうちパン教室も始めたいな〜と思っていますので、今後ともよろしくお願いいたします。

分析する癖をつける

早いものでもう新年もひと月が過ぎようとしていますが、今年のテーマは「知る」こと。

今年は阪神淡路の地震から20年、地下鉄サリン事件からも20年。
東日本の震災もそうですが、その一時期いろいろ思ったり、行動を起こしても「喉元過ぎれば・・・」元々が自分のこととして捉えていないだけに、気の毒とか自分に何かできなか、などど、感情だけで行動しているので結局のところ何故このような経験をする必要があるのかということを「考えない、知ろうとしない」ために自己満足に終わり結局本来の意味を理解しないまま学ばずじまいになってしまいます。
というのも、どれくらいの人が直接寄付などはしていなくとも今でも節電を心がけ、原発や放射能のことを真剣に考えているでしょうか。

何事もその経験の理由をきちんと理解しない限り、感情だけで理不尽だ、と人や社会をうらやんだり、妬んだり、間違った平等という捉え方をするがために自分が被害者の様な間違った感情に捉われてしまいかねません。

丁度、新年のメッセージの中で、

「相手」が自分にために演じてくれている役割に気付いた時、自分の意識が変わり、それに比例して「相手」も変わる。

というものがありました。
この「相手」というところは「病気」と置き換えても同じことです。

とかく人は相手を理解するよりも自分を解って欲しいという気持ちが先になりがちです。
そのために、自分と違うものの見方、考え方をする相手を非難したり、その違いに苦しみ、本来なぜそのような出会いがあるのかの意味を分析することをおろそかにしてしまいがちです。
病気などは特にわかりやすく、「なんでこんな目に」という気持ちに捉われて、その病気にならければ気づかなかったことや得られなかったことを忘れがちです。

けれどもどんなことにも必ず意味があり、自分に気付きを促し、自分の未熟な部分、足りない部分をあぶりだしてくれます。
というのも、すべての人は愛され、生かされ、成長すべくこの世は計算しつくされているからです。
皆さんも後になってその意味が分かったという経験がおありになるかと思います。

だからこそ、すべての経験から学びを深めて恐れることの無い幸せな自分になるために常に「波長・カルマ・おしるし」に当てはめて考え、物事を正しく分析する癖をつけましょう。
見方を変えれば日々、気付きを促し成長させてくれる出来事がいっぱいで、自分がいかに愛され生かされているかが分ります。

「あたま」の位置は高く?!

『ベッドに入ってからいろいろ考えたり、悩んだりして眠れなくなる。
今日の失敗や明日の心配、果てはずっと昔のことやまだ起きていない未来のことまでいろいろ不安がつのって心臓がバクバクしたり、とても寝るどころではない。』

このようなことは誰でも経験したことがあるかと思いますが、実は頭の位置に影響されることがあります。

人は頭の位置が高い時にはポジティブなことを考え、低い時にはネガティブなことを考えます。
人の行動を見ても嬉しい時、喜んでいる時は飛び跳ねたりガッツポーズをしたりして、より頭の位置が高いところにあります。
逆に失敗したり、怒られたり、落ち込んだりという時にはうなだれて頭が低い位置にきます。おなじみの顔文字でも _| ̄|○ orz OTL など見かけますが、見事に頭の位置が低くがっくりしていますね。

性格的なものでも強気で元気な人が猫背になってうなだれて歩くことはないですし、
弱気でくよくよ悩んでばかりいる人がピンと背筋を伸ばして胸を張り、颯爽と歩くという姿も見かけません。
病気で寝ている時もベッドで半身起こしてもらうだけでもだいぶ気分が軽くなったりするものです。

なので、ベッドに入ったら頭が低い位置にあるときに考えることはたいていネガティブなので何も考えずに寝るのが一番ですが、考え始めたらとりあえず一度起き上がり、姿勢を正して頭の位置を高くすることで「どうしよう」などという不安な気持ちも「まあ、なるようになるか」と思えたりするので不思議です。
また、しぶしぶ起き上がっていたら途端に眠くなってそのまま熟睡、などという方もいらっしゃいました。

もちろん空回りのポジティブは無意味で疲れるだけですが、頭の位置を高くしてまずは体をいい状態にしてからものを考えると、より理性的に本来の自分の良い部分が引き出されます。是非、お試しになってみてくださいね。

巻き込まれずに、巻き込む。

10月も半ばを過ぎ、秋も深まりだいぶ肌寒くなってきました。
人恋しくなる季節ゆえに、ままならない人間関係からの学びも多くなってきます。
なんてことはない人との触れ合いの中でも、きちんと挨拶ができたり、お礼が言えたり、明るい笑顔の人に対してつい、「ああ、いい人だなぁ〜」などと思うことが皆さんにもあるかと思います。
けれどもよく考えてみればこれは人とのコミュニケーションのなかでごく初歩的なこと。
なぜこんな当たり前のことでつい「いい人」などと思ってしまうのか。

それは現代人にゆとりがなく、常に何かに苛立ち、自分を認めてもらえず、大切にされていないという不満を持っているなど、ゆとりの無さや損得勘定から得の無いことはしないという淋しい考えから他者に対して愛が持てなかったり、想像力の欠如のためです。

そんな気持ちが渦巻く世の中だからこそ、圧倒的な負のエネルギーに巻き込まれない自分になる人間力を持つことが試されます。

人は自分にとって「いい人」に対して自分もいい人でいることは簡単ですが、
嫌な人、感じの悪い人に対してもいつものままの自分で平常心を保てること、これができてはじめて自分は自律していると言えます。

というのも、嫌な人の行動で自分まで嫌な気分になったり、イライラしたりするのは相手の波長に引きずられている証拠です。
つまり、ままならない他者を裁く事ばかりに捉われ、自分のこととして分析していません。

相手がどんな人であれ、幸せな人は人に意地悪をしません。
その状況に至るまでには何らかの理由があります。

そんな時、相手の低い波長に引きずられないようしっかりとした軸を自分が持っていれば、
自分の高い波長が相手に影響し、相手が変わることもあります。

皆さんにもこんな経験はありませんか。
ぶすっとしていかにも感じが悪い人に、こちらはいつもと態度を変えずに接してみたら
意外とそんな悪い人ではなかった、もしくは変わってきた、というようなことです。
それはあなたの高い波長に相手が引っ張られて相手の良いところが引き出された証拠です。
「どうせみんなそんなもんだよ、私のことなんてどうでもいいと思っているんだ」
とひがみや恨みつらみ、嫉妬で渦巻いている人だからこそ、自分も大事にされているのだと感じたときに相手の中で少しずつ変化が起きます。
実際に私はこういった経験を何度もしています。

暗闇を非難し、嘆くのではなく、自らが光となるような生き方、思い、言葉、行動を心がけていきたいですね。
自分が変われば世界が変わります。

「そのまま」では不幸なまま

現世で生きていくということは、思うようにいかない苦難の連続です。
なぜ、苦難はやってくるのでしょうか。
それは「そのままのあなた」ではなく、ままならないことから己の未熟さに気づき、成長してくださいというおしるしだからです。

「そのままのあなたでいい」というのは「成長しなくてもいいのだ」というありもしない魔法を期待するようなもの。
結局のところ、経験から何も学ばず何のために生まれてきたのか?となってしまいます。

丁度紅葉の季節なのでこのことを樹をに例えると
春に緑の葉をつけ、夏に成長し、秋に紅葉し、綺麗になったのはいいけど冬には枯れ落ちてしまう。
なんだか毎年同じことの繰り返しで面倒くさい。
これに何の意味があるのだろう。
だったら一年中緑で葉が落ちなければいい。
紅葉なんてしない方が楽。
無難でつつがない毎日を送りたい。
終いには、落葉樹なのに毎年面倒くさいから常緑樹になりたいとか、
黄色くなる葉よりも赤い葉の方が見栄えがいい、
などと自分を受け入れず他と比べてああだったら、こうだったらと自分以外のものになろうとするようなことになってしまいかねないこともあります。
自分は変わろうとせず、周りや状況が変わってほしい、自分は何もしたくない、このままで何とかならないものか、どうせ頑張ったってあんな風になれっこない、と思い込む、これが成長しないといことです。

毎年同じことの繰り返しをしているように感じていても、季節の移り変わりの刺激により根が深く張り丈も高くなり確実に花や実の数が増え成長しているのです。
けれどもこれを即実感することは難しく、以前と比べてそういえば・・と解るものです。
あるがままの自分を受け入れたうえでこの繰り返しから今年はこうだった、前の年はこうだった、と分析し、学んでいくことが成長していくということで、正しい意味の「あなたのままでいい」です。

こういった例えを読む限り、そんなの当り前じゃないか、と思われる事でしょう。
けれども実際はもっと自分がこうだったら、ああだったら、と思い悩んだり、完璧を目指したり、人からどう見られるかばかりに気を捉われたり、でも、だって、どうせ、と自分が変わろうとする実践の一歩を踏み出さない言い訳を並べてしまうのが常です。

自分にないものを並べたてて人と比べるのではなく、比べるべきは過去の自分と今の自分。
成果主義に陥らず、自分の個性や才能を見つめ活かしていく努力をしていくことで生きがいややりがい、達成感、満足感が味わえ、本当の幸せが見えてきます。

少欲知足

足るを知る』ということを4年前のブログでも書いていましたが、その時は「断捨離」という言葉がちらほら出始めた頃で「モノ」について書きましたが、これからは自分の生き方そのものについて「足るを知る」時代です。

けれども本当に「足る」を知るには自分を知らなければはじまりません。
自分は何を欲しているのか、何が自分の求める幸せなのか、これが分かっていないと人をうらやむだけで努力しないただの怠惰な人になってしまいかねないからです。

多くの方がこの自分はどうしたいのかという軸がぶれてしまうために「こうでなければいけない」と焦って不安になり悩んだ結果、安心したいがために「こうあるべき」という誰かが作ったマニュアルにすがって自分で考えることなく、その通りに生きて行こうとしてしまいます。

そのいい例が、お金がないと不安、無名の会社で安月給で働くのが不安、学歴がないのが不安、ブランド品を持っていないのが不安、家も車も持っていないのが不安、いい暮らしができないと不安、独身が不安、子供がいないのが不安、つまり誰からもうらやましがられるような「なんでも持っている勝ち組」でないと不安。
その不安から抜け出たいがために、もっともっと、とモノやお金を持たばければと思い込んでしまい、自分を追い込むことになります。

本当に自分はそうなりたいのでしょうか。

「高学歴で一流の会社に入社して出世して高給取りになりたい。
欲しいものは何でも買える生活がしたい。」

これが本当に自分が望むことなら遊ぶ時間を惜しんで子供のころから猛勉強して、偏差値の高い学校に入り、大手企業に就職し、一日でも早く上のポジションへ、という常に人と競争して結果を出し続ける人生であっても、なりたい自分に向かって前進しているので傍から見て大変そうでも本人は望み通りですから毎日が充実していて楽しくてしょうがないはずです。
並大抵の努力では実現も維持もできません。これはこれで素晴らしい生き方です。

けれどももしも自分が、世間のマニュアル通りに生きなければ、とこうするべきで行動していたとしたら、どうでしょうか。

毎日の競争は苦痛そのもの、脱落する同僚を明日は我が身と必死になって走り続けることに疲れてしまいます。
仕事で成功している人は人の何倍も働いているから結果がついてきているのです。
けれども何倍も働けるのはそれが心からなりたい自分の像と一致しているからであって、
そうでない場合はストレスで病気になります。
また、病気にならずに上手くこなしていったとしても手広く仕事をするほど人間関係も広くなり、お付き合いだけでも大変で自分の時間などほんのわずかになってしまいます。
毎日誰かと分刻みに逢って、息つく暇もなく、睡眠時間も削り、大切な人や友人との約束、既婚者なら家族との時間も削って仕事に打ち込みます。
食事も仕事を兼ねたものばかりで何を食べたか味も解りません。
また、お付き合いで買わなければならないものもぐっと増えます。
入る分出ていくものも大きいわけですね。
そのうち何のための買い物なのかもよくわからなくなってきます。
終いには多くの人と利害関係だけでつながっているので人間不信にもなります。

こんなに大変なことを自分が強く望みもしないでこなせるわけがない、ということです。

ですから自分がこれでいいのだ、これが自分の幸せなのだ、と判断したら周りの声に惑わされないことが大事です。
他人に理解されなくても、自信を持って自分の価値観を貫くことに意味があります。
その結果何物にも惑わされず、不安や恐れが無くなりぶれない軸を持った自分が出来上がります。

軸がしっかりすると言葉と行動が一致し、地位や名誉でなく自分の人間性を認められることで良い人間関係が出来上がって心も満たされて行きます。
「少欲知足」だけが正解ということではありませんが、常に自分自身がどうなりたいのか、それは本心からなのか、モノがないと不幸という一般論に踊らされていないか、自己分析して自分に分相応なところで足るを知ることが大事ですね。

※画像は毎年我が家に春の訪れを告げてくれるライラックです。
淡々と自分のシステムに従って咲き誇る姿は美しいです。

| 1/7PAGES | >>

calendar

S M T W T F S
     12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
31      
<< March 2024 >>

selected entries

categories

archives

recent comment

links

profile

search this site.

sponsored links

others

mobile

qrcode